いろんな出来事が起きるたびに、特に「悪いこと」が起きたとき、批判や誹謗中傷が可視化されます。
そして今は、批判と誹謗中傷の境界が曖昧になりやすいと感じます。
インターネット上でよく見かける現象として、悪いことをした人がいれば、それはそれとして非難されるべきだと思います。
ただ一方で、「正義」を掲げることで、誰かを執拗に責め続け、結果として責める側が加害的になってしまう場面もあります。
これは、重大な悪事に限りません。ちょっとしたミスに対しても、重箱の隅をつつくように詰める人がいます。
ミスや誤りそのものを指摘することには一定の筋が通っていますし、指摘自体が悪いという話ではありません。
私が問題だと感じるのは、同じ「正義」や「正しさ」を語っているように見えても、そこに善意と悪意が混ざり得る、という点です。
正義そのものを否定したいわけではありません。誤りは正されるべきですし、守られるべき人もいます。
ただ、正義は善意にも悪意にも使えてしまう“道具”でもあります。そしてその道具が、いつの間にか攻撃のために振り回されることがある。
そこで私は、「正義か悪か」で語るよりも、「善意か悪意か」という見方を大切にしたいと思っています。
「正義/悪」という枠組みは、出来事の結果に対して結論を急ぎやすい面があります。
しかし現実には、同じように見えるミスや誤りでも、その背景や意図によって、受け取り方や向き合い方は変わるはずです。
悪意があって人を傷つける行為と、悪意はなく、結果として失敗してしまった行為は、同じ一言では片づけられません。
そしてもう一つ重要なのは、ミスを正すことと、人を壊すことは別だということです。
指摘は善意でもできますが、追及は悪意でもできます。正義を掲げることで、その悪意が正当化されてしまう。私はそこが最も危ういと感じています。
私が一番悪質だと思うのは、正義の面をした悪意です。
正しさの言葉をまといながら、相手を追い詰めること自体が目的になってしまう。あるいは、誰かを悪者にし続けることで、自分の立ち位置を保とうとする。そういう空気が、特に匿名性の高い場では強まりやすいように見えます。
私は、世の中の全員が完璧であるべきだとは思いません。
誤った行動があったとしても、善意があって反省し、やり直していける余地があるなら、それでいいのではないかと考えています。もちろん、すべてが許されるという意味ではなく、「正すこと」と「壊すこと」を同一視しないでいたい、ということです。
私は「正しさ」より「身の置き方」を選びたい
ここまで書いてきたことは、「こうあるべきだ」と世の中全体に求めたい話ではありません。
だから私は、誰かの考え方を変えてほしいわけではなく、自分がどこに身を置くかを選びたいのです。
すべての人が、常に善意を持って他者に向き合えるとは限りません。
だからこそ私は、悪意を感じる相手とは距離を置き、善意を大切にする人と寄り添いたい。善意を基準に、人との距離を決めたいと思っています。
そして、そういう人同士がつながれる手段がほしい。
それが、MATE構想の重要な要素の一つだと考えています。