Vtuberはアイドルではなくアイコンと考えてみる

Vtuberについては、私はまだ浅い知識しか持っていません。ですが、以前からぼんやり考えていたことがあり、今回はそれを自分の中で整理してみます。結論から言うと、私はVtuberを「アイドル」というより「アイコン」として捉えると、腑に落ちる部分が多いと感じています。

Vtuberは2種類に整理できる(あくまで整理のために)

まず、私の中ではVtuberは大きく2種類に整理できます。

1つ目は、現実の人間が自分の代替としてキャラクターを使い、活動の延長線上として運用するタイプです。
2つ目は、現実の人間とは切り離して、架空のキャラクターが主体として存在し、それを演じるタイプです。

ここで先に断っておきたいのは、現実には境界線が曖昧なケースも当然ある、ということです。いわゆるメタ発言があったり、本人の要素とキャラクターの要素が混ざっていたり、グラデーションは確実に存在します。
ただ今回は、実例をすべて二分したいわけではなく、私が「考えたい違い」を見えやすくするために、あえて両端を強調して整理しています。特に後者の意義を語りたいので、分類としてはっきり置いています。

この2つの違いは、単に「演技が上手いかどうか」や「設定をどれだけ作り込んでいるか」といった濃度の話ではなく、もっと根っこの部分――つまり、同一性(その存在の主語)がどこに置かれているかの違いだと思っています。

  • ①は、中心にいるのが「現実の人間」で、キャラクターは表現の器や皮として機能しやすい。
  • ②は、中心にいるのが「キャラクター」で、現実の人間は裏方へ退きやすい。

言い換えるなら、①は「現実の人がキャラクターを使う」感覚が強く、②は「キャラクターが現実の人を使う(乗り物として使う)」感覚が強い、と整理できます。

①は“人間の時間”に結びつく

①のタイプは、ネットにおいて匿名性を持って活動していきたい、という発想に近いと思います。匿名である点以外は、テレビに出ている芸能人や配信者と大差がない、という見方もできます。実際、顔出ししないアーティストもいますし、活動スタイルの多様化を考えると「ここからここまでがVtuber」という垣根は年々薄くなっているようにも感じます。

ただ、①がどれほど匿名であっても、そこに強く残るのは「人間」という前提です。
そして人間には、どうしても時間が流れます。成長し、変化し、老いていきます。アイドル的な構造であれば「卒業」という形で終わりが訪れることもあります。これは良い悪いの話ではなく、人間の活動として自然な時間の流れです。

つまり①は、どれだけ魅力的であっても、概念としては「終わりがある」ものになりやすい、ということです。

②は“アイコンとして扱える”可能性がある

②も、現実には同じように終わりがあり得ます。けれど、ここからは「現実の運用」ではなく、私が語りたい“理想像”の話になります。

私が②に感じる大きな特徴は、キャラクターが「人間の時間」から相対的に距離を取れる点です。
より正確に言えば、キャラクターは永遠であるかのように扱える可能性がある、ということです。

ここでいう「永遠」とは、「制度として永遠に存続させる」といった現実論ではありません。声の変化や、運用上の事情や、権利の問題など、現実的な課題があるのは当然です。ただ、私がここで言いたいのはそういう話ではなく、受け手の感覚として、そして設計思想として、“終わりを前提にしない関わり方”が可能になり得るという点です。

私はこの性質を「アイコン」と呼びたいのです。

アニメがくれる“再現性”と“区切り”の感覚

この感覚を説明するために、アニメの例を使います。

アニメは、昔の作品でもいつ見ても、同じ声で、同じ世界が再生されます。もちろん視聴体験には始まりと終わりがありますし、エンディングが来れば作品はひとまず閉じて、視聴者は現実に戻されます。ここに矛盾はなくて、整理すると次の2つが同時に成り立っています。

  • アニメは、世界への入り口としての再現性が高い(いつでも同じ世界に入れる)
  • しかしアニメは、体験が作品単位で区切られる(必ず終わりが来る)

そして私は、視聴体験そのものは素晴らしいのに、エンディングで強制的に現実へ戻されるあの感覚を、どこか寂しく感じることがあります。作品が終わった後も、その世界観やキャラクターは思い出として残り、象徴として心に残ります。しかし、こちらの人生と並走してくれる存在かというと、基本的にはそうではありません。

“区切られない接触体験”が実現したら強い支えになる

そこで私が考えるのが、Vtuber――特に②のように、キャラクターが主体として成立しているタイプの可能性です。

もしVtuberが、アニメのように「いつ接しても同じ世界に戻れる」再現性を持ちつつ、しかもアニメのように作品単位で強く閉じるのではなく、もっと生活の側に寄り添って、区切られない接触体験のようなものを提供できるとしたらどうでしょうか。

もちろん配信には終わりがありますし、コンテンツは更新され続ける必要があります。ですが私が言いたいのは、「終わりがないコンテンツ」という意味ではありません。
そうではなく、受け手の側にとって、終わりが前提になっていない関係性として積み重なっていく存在になり得る、という意味です。

それが実現すれば、私にとってはものすごく支えになります。人生の中で、ふと戻れる場所がある。いつ接しても、同じ象徴としてそこにいる。そういう存在は、思い出以上の意味を持つと思います。

そんなふうに考える人は少ないかもしれません。けれど、同じように感じる人は一定数いるのではないかと思います。

「老いがない」というより「時間に侵食されにくい」

ここで、アイドルとアイコンの違いをもう少し言語化しておきます。私の中で中心にある軸は、確かに「終わりがあるか/ないか」です。

現実の人間は、見た目の成長や老いを含めて、どうしても時間の影響を受けます。これは当たり前のことですし、そこに魅力が生まれることもあります。しかし「象徴として変わらずそこにある」という性質を期待するとき、人間の時間は時に残酷でもあります。

一方でイラストは、イラストである限り、老いという概念を持ちません。もちろんアップデートはあり得ます。絵柄が変わったり、デザインが洗練されたり、表現が刷新されたりすることはあります。
ただそれは、時間による老いではなく、表現の更新です。そして上手く設計されていれば、その更新は「別物になってしまうこと」ではなく、「同じ象徴が磨かれていくこと」として受け取ることができます。

だから私は、②のVtuberには、時間に侵食されにくい同一性を作れる可能性があると思っています。ここに「アイコン」という言葉の感覚があります。

私はそういうものを作っていきたい

まとめると、私がVtuberを「アイドル」ではなく「アイコン」と捉えたくなるのは、そこに「終わりを前提にしない関係性」や「時間に侵食されにくい同一性」といった可能性を感じるからです。

そして、もしそのような存在が実現し得るなら、それは私にとって大きな支えになります。私は、そういうものを作っていきたいと考えています。

(MATE構想の話につながりますが、いったん、ここまで。)

投稿者: yoiyoidays

自分の考えをChatGPTを使って文章を整理しています。

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